ABC通詞

 不法入国だとかで、遠い蝦夷地からひとりの青年が送還されてきた。
 ラナルドという名前らしい。が、それ以上は分からない。
 俺は俺で、突然幕府の役人から呼び出されて、説明の無いまま聖福寺に連行されていた。表を通り、大悲庵へ向かう。役人は座敷牢の目の前で止まり、くるりと俺の方を向いた。
「お前、阿蘭陀通詞なのは、確かか」
「へ、へぇ。一応、異人との通詞を仰せつかっておりますが」
「よし、なら良い。後は任せたぞ。この男が一体どこから、何を目的に日ノ本に来たのか聞き出してくれ」
役人はそれだけ言い捨てると、サッと踵を返して立ち去ってしまった。
「う、うそやろ……」
 恐る恐る、座敷の中を覗く。
「ハァイ」
「ひっ」
「ナイストゥミーチュー。アイムラナルド」
「あい、むらなんど……はは……。えっと、お、俺は森山栄之助だ。この長崎で阿蘭陀通詞を任されているが、本日付で、お前の世話役を仰せつかった」
「……ソーリィ、アドンノゥマッチ、ジャパニーズ」
「………………はは……勘弁……」
 これが、俺とラナルドの出会いだった。

 言語の壁は大きい。
 とは言うものの。
 面白いことに案外不便では無かった。
「ほら、飯だ」
「……イッツ、ミール?」
「みーる? こ、これは飯だ」
「ミール。ミール、イズ、メシ?」
「そうだ、飯……うん? お前、日本語を勉強してんのか?」
「ジャポン、ナガサキ、ショウ、ホクジ」
 恐らく、ここら辺を行き来する人々の言葉を拾っているのだろう。思えば、座敷牢に入れられているというのにこれまでに不遜な態度は無かったし、むしろ終始笑顔で、俺との会話を楽しんでいるようにも見える。もしかすると、牢に入れられるほど悪い人間ではないのかもしれない。
「そうか、日本語を、お前……。語学って難しいよな。俺も通詞だから分かるよ、その苦労」
 うんうん頷いていると、ピーンと「ある」考えが浮かんできた。
 俺は阿蘭陀通詞だ。異国の言葉を学んでいる。
 そしてこいつは日本語を学ぼうとしている。
「これだ……!!」
 思い立ったが吉日!
 かの日の役人のように、俺はサッと踵を返して慌てて聖福寺を後にした。

 俺はその後、長崎奉行所に直行して、事の次第を洗いざらい説明した。
 勿論、ラナルドを通詞の先生にしてくれないかという打診である。俺たちは外国語を学べ、ラナルドは日本語を学べる。利害の一致だ。
「そういうことなら大いに結構。しっかり励みたまえ」
 そう返してくれたのは、長崎奉行の井戸覚弘様だ。昔、仏蘭西艦隊や亜米利加艦隊をなんととかかんとかしたとかで、異国がらみのことは井戸様に訊けば大抵なんとかなると皆が言っていた。

 以降、俺を含めた阿蘭陀通詞十四人は、毎日あの座敷牢に通って、ラナルドから英語を習った。その間、七か月。七か月後にはラナルドが日本語を話し、俺はそれに英語で返すなんて滑稽な会話が成立していた。その頃には座敷牢の鉄格子も撤去され、通詞だけでなく町人までもがラナルドを訪ねて英語を学ぶようになっていた。

 帰国当日、別れ際に「ニポンに来れてヨカッタ」とラナルドは言った。
「イキナリ訪れたにも関わらず、こんなにもニポンの皆さまは良くしてくださいマシタ。エイ、きみはわたしのベストフレンドです」
 エイ、というのは俺の愛称らしい。エイ、ビィ、シィ、のエイなんだと言っていた。
「エイは、アルファベットの一番初めのコトバです。あなたはきっと、ニポンと世界を繋ぐサイショの橋になります。また、今度は世界で会いましょう」
「う、うるせぇよ」
 にこやかに笑うラナルドの顔が歪んで見えて、ぽたぽたと地面に滴が落ちた。
「サヨナラ、エイ」
「おう、またな」
 ラナルドを乗せた船が遠くに消えていく。
 俺はその光景を、いつまでもいつまでも、忘れることができない。

長崎市のお隣に在住。物語を書いています。文芸サークル【444号室】のひとり。