お諏訪までのチョコ

 近所の駄菓子屋に変なお菓子が増えていた。
 チロルチョコと似たパッケージで、包み紙には「でんしゃ」と書かれてある。
「おばあちゃん、これは?」
「チロルチョコさね」
「ふぅん」
 何だかよく分からなかったけど、いつもの10円の安さに、僕はひょいと買い物カゴに入れた。小学校六年生の頃だった。

 そんな「でんしゃチョコ」と再会したのは、それから20年ばかり経った日のことである。
 僕はランドセルの代わりにスーツを着て、地元から程遠い長崎で暮らしていた。

「なんだ、まだあったのか」

 懐かしさと、再会した嬉しさに思わず買ってしまい、その場で包みを開ける。20年前と変わらない甘い匂いと、パッケージングだった。
 このチョコの面白いところは、包み紙が電車の切符を模したデザインになっているということと、実際にこれで電車に乗れてしまうということだ。ちなみに、二つ買えばしっかり往復分になる。
 小学生の頃は大したお小遣いも無かったので、これでよく電車に乗って、遠出をしたものだ。長崎も使えるのだろうか。そもそも、大人が使えるものなのか。

「『でんしゃチョコ』ですね。大人は諏訪神社までしか乗れんとですけど、良かですか」
「あ、はい」
 なぜ諏訪神社までなのかはさておいて、どうやらちゃんと使えるらしい。
 少しの恥ずかしさを感じつつも、小さい頃のワクワク感が蘇ってきて「どうせここまで来たのだから」と蛍茶屋行きに飛び乗った。
 諏訪神社まで、と言われたものの、僕は長崎市民ではないから場所のことは良く分からない。何かあったらグーグル先生がなんとかしてくれるだろう。
 進行方向とは反対側の、一番端の座席に座る。昔からの特等席だ。運転席から覗ける、ぐんぐん過ぎていく風景が大好きだった。
 ガランゴロン、ガランゴロン。
 後ろ向きに走っているような感覚が、次第に別のものに変わる。
 僕は過去を見送っていた。見えている風景は、既にこの電車が置いていった過去で、僕はこの電車の過去を見ている。
 溢れてくる郷愁が電車に吸い取られていく。懐かしい子どもの頃の感情を、過ぎていく風景と共に置いていく。

 僕の心がすっかり大人になってしまうと、電車は諏訪神社に着いていた。
 運転手に切符を手渡して、過去から降りる。見慣れない景色に、なぜか清々しい気持ちがした。
 どことなく、諏訪神社の神さまから励まされているような気がする。

長崎市のお隣に在住。物語を書いています。文芸サークル【444号室】のひとり。