勇魚

 海沿いを歩いていると、不意に大きな影が海面に映し出された。
 くおー、くおー、という声とも音とも判らぬものが響き、突然噴水が湧き上がる。映像や本でだけの関わりだった「それ」を間近にした私は、気が付くと「おかあさーん!」と一目散に帰宅していた。十歳、冬。
 台所で夕飯の準備をする父に「ただいま」を告げ、洗濯物を取り込む母のもとへ急ぎ、事の顛末を話す。
 すると、聞いた母は「ああ、またこの時期ね」とにこやかに言った。
「鯨組の方よ。お出迎えしなくちゃ」
「でも、人間じゃなかったよ、もっと大きくて」
「変なこと言わないの。あなた去年まで普通にお出迎えしてたじゃない。イサナさん、イサナさんって」
 私は母の言ってることが分からなかった。
 イサナさんというのは、聡明で、博識で、イケメンでかっこいい、親戚のお兄さんのことだ。冬になって親戚一同が集まると、いつも座敷の端っこに座っている。青いネイルが綺麗で、毎年、ネイルを口実にイサナさんの隣の席を陣取っているのだ。

 母の言った意味は理解できなかったものの、二日経った頃にはいつの間にか親戚が集まり、お料理が並べられた頃にイサナさんが顔を出した。
 カタリカタリとした独特な足音が台所まで聞こえ、私と母は慌てて玄関先へ向かう。
 そこには去年と同じように、クーラーボックスを抱えたイサナさんが立っていた。
「こんにちは、多恵子ちゃん、恵ちゃん」
「やだぁ、もう『多恵子ちゃん』なんて歳じゃないですよ。ほら、イサナさんに挨拶して、恵」
 言われなくても分かってる! なんて言葉はイサナさんを前にして言えるわけもなく、私は毎年のように「こんにちは」と頭を下げた。
「こんにちは。お邪魔します」
 イサナさんの笑顔は去年よりも眩しい気がした。

「そういえば、私、クジラを見たの」
 ジュースを飲みながら、私はイサナさんの袖を引く。イサナさんの口に入るはずだったイカの刺身が箸から落ち、皿に帰った。
「そう、クジラ、初めて見たんだ」
「びっくりしたの! あんなに大きいんだって。私なんか丸呑みにされそう」
「あはは、人間を丸呑みなんてできないよ。見た目こそ大きい口だけど、オキアミとか小魚とかばっかりで食道はあんまり大きくないんだ。オエッってなっちゃう」
「へえ……、そうなんだ、意外と食べないんだね」
「そうさ。クジラは人間を食べないけど、人間はクジラを食べるんだ。ちょっと面白いよね。昔は鯨捕りと言って、捕鯨を職にした人がいたのさ。三百人くらいが一斉に船に乗って、槍を投げたり、飛び乗って首に縄を掛けたり。命懸けだったよ。でもクジラは一匹から獲れる肉も多いし、歯は櫛とかアクセサリーになって、ヒゲだって掃除するブラシになった。鯨捕りは危ない仕事だけど戦士のような――」
「がははは! その話はもう何十回も聞きましたわイサナさん!」
 イサナさんの向かいに座っている遠い親戚のおじいちゃんがゲラゲラと笑う。グラスの近くの酒瓶は三本目で、たぶん、相当酔っている。おじいちゃんなんだからお酒は止めたらいいのに。
「わしがガキの頃はまだ鯨捕りもおりましてな、イサナさんが船に乗るのもよう見とりました」
「えっ」
 見てたって、何が? おじいちゃんはおじいちゃんだし、イサナさんはお兄さんだ。
 すると今度はその隣のおばあちゃんまで「私もイサナさんには惚れ惚れとしておりました」と不思議なことを言い出す始末。終いには何故かイサナさんが大昔に鯨捕りをやっていて町の海を牛耳っていた話で盛り上がった。
 私は訳が分からず、イサナさんもなぜか額に脂汗をかいて必死に話を逸らそうとしていた。

 結論から言うと、あのクジラはイサナさんそのものであり、親戚の集まりにイサナさんがやってくるのではなく、イサナさんが来たから親戚が集まるらしい。
 足早に屋敷を後にしたイサナさんの背中を思い出し、母に問い詰めた話は以下の通りだ。
 イサナさんはその大昔、捕鯨のために長州藩からこの町に下ってきたひとりの捕鯨職人であり、ある時ひょんな水難に遭ってクジラと一体になってしまったのだという。
 とは言っても人間の姿も出来たので、その後も捕鯨職人として精を出しつつ、個体数激減によりクジラが絶滅した後にはこうして気が向いた時に町に寄っている、ということらしかった。
 捕鯨職人が長州藩から~のあたりで千六百云年と言われ、既にこんがらがった脳内と私の心は既に疲弊して、初恋を知ったと同時に失恋の味も噛み締めてしまった。
「あんなにイサナさんと話してたから、全部知ってたんだと思ってたわ」
 と、母は言い括った。

 くおー、くおー、と、イサナさんの声が聞こえる。
 イサナさんは、これからもこの町を見守っていくのだろうか。私が死んでも、この町に居続けるのだろうか。ひとりで、寂しくは無いのだろうか。
 現実のものなのか、私の幻聴なのか分からない「くおー、くおー」を聞きながら、来年もきっと来るイサナさんに胸を焦がせた。

長崎市のお隣に在住。物語を書いています。文芸サークル【444号室】のひとり。